noteに書いてたフリーター放浪記、ブログにまとめることにする。
フリーター時代に体験したことをつらつら書くにあたり、まずはフリーター以前の話を書いてみる。
山口県下関市というところで生まれ育った
住んでいたところはかろうじて“町”と名乗ってるけど、信号もない過疎地。厳密には住所に〜〜町という表記はなく“大字”(おおあざ)という、分かる人にしかわからない田舎のソレがついている。
海と山に囲まれた、という表現がぴったりな漁村のような漁師町。
そんな地域だったけど、我が家は自営業のサッシ屋(ざっくり言えば大工さんのような仕事)で、家の真横が工場&事務所だった。両親が65歳を過ぎたころ、会社組織としては精算し現在は個人事業主としてほそぼそやってる。(サッシは腐らんからええのぉ、俺はええ仕事選んだ!とオヤジがよく言ってるらしい)
僕が生まれる10年くらい前から両親が有限会社として営んでいて、スタッフはだいたいいつも2名。最後の方は両親+1名だった。
最後まで働いてた1名のおじちゃんは僕を「ツトムくん」と言ってとても可愛がってくれてたし僕もなついてた。
兄弟構成にも触れておくと、10個上の兄と8個上の兄がいる。つまり、自分は何かしら(酒)の勢いで出来た子なんじゃないかと思ってる。笑(とても優しい母と適当な父のことは大好きだし、産んでくれたことは震えるくらい感謝してる)
釣りに出会い、釣りを仕事にしたいと思った思春期
そんな僕は中学生の時からバス釣りにどっぷりハマり、高校生の時は本気でバス釣りのプロを目指してた。(バス釣りブームの真っ只中だった)
でも釣りの腕前では友達にすら叶わない始末。
ただ、オヤジ譲りなのが手先は器用だったから、工場に落ちてる木材を加工してルアーを作ったりして遊んでた。高校生になってから本格的なルアー作りに目覚め、エアスプレーやコンプレッサーなんかも買って部屋で黙々と作ってた。
そうそう、ちなみに僕は工業高校の機械科出身。(過去の仕事で一度も機械系に就いたことないけど、このとき取得した危険物乙四という資格だけは後々役にたった)
まだAmazonも無かったような1999年ごろ、参考資料もなかなか手に入らず、隣の福岡県まで買いに行くことも。
ルアー職人という職業についても釣り雑誌なんかで知り興味津々。ヒューマンアカデミーという、とにかく多ジャンルをカバーした専門学校があり、その中に『バス釣りのプロを目指すコース』や『ルアー職人をめざすコース』があった。
専門学校という選択肢も考えたけど、僕に1つ小さなプライドというか決めていることがあった。
高校卒業後は就職したい。早く大人になりたい。
兄2人は市内でもトップクラスの進学高校に入り、それぞれ関東と関西の大学に進学。
それに比べ僕は中学校での成績は真ん中から下。高校でもそのくらい。とにかくバカだった。勉強にも興味がないし、学業では兄たちに叶わないと思ってたから、少しでも早く社会にでて大人になりたかった。
それと、小さなプライドと共に
『自分は兄2人に比べ頭が悪い。だから高校卒業後は就職し、お金の面で苦労をかけないようにしたい!』
と決めていた。つまり、少しでも早く独り立ちしたかった。だから専門学校という選択肢は捨て、釣具屋さんで働けないかと模索していた。
うちの学校は就職率が95%を超える、地元の工業系では人気の学校だったけど、当然どれも製造業や機械関係の職場ばかり。
釣具屋なんかあるわけない。
今振り返っても母は偉大だと思うけど、
『じゃあ就職情報誌を取り寄せて直接連絡してみよう』
と、手伝ってくれた。(それなのに黙って1年で辞めるわけだけど…)
場所は大阪にしようと決めた。お笑いが好きだったし、なんとなく東京が好きじゃなかった。でもなかなか工業高校卒業→釣具屋というルートがない。
だから僕は目標を広げ
『どんな仕事でもいいから関西で就職し、一人暮らしをする』
と母に相談。
結果、マツヤデンキと(ゴルフしたことないのに)ゴルフ場のキャディという候補が上がってきた。本当に仕事はなんでも良かった。
最終的にマツヤデンキの就職試験を受けることに。確か姫路かどこかまで行ったような気がする。
高校時代に自慢できることが1つもなかった
『高校時代に頑張ったこと』
という作文を書く、という試験がマツヤデンキで行われた。僕はバスケ部を3日で辞め、その後はずっと帰宅部。しかも人嫌いが異常に強かったので友達も少なく、文化祭なんかでも校舎の影で過ごすようなやつ。
何かを成し遂げたことなんてなかった。
書くことがなく、やけっぱちで『毎日20キロの道のりを自転車で通学した』というテーマで話を広げまくって書いた。
忍耐がついただとか、体力がついただとか。
そんな泥団子にきな粉をまぶしたような文章で受かるはずもなく、あえなく落選。ちょっと落ち込んだけど、すぐに釣具屋さんに面接のチャンスをもらうことが出来た。
大阪に何店舗かある釣具屋さんで、本来は専門学校卒以上じゃないと正社員になれないところ。そこを母の交渉もあり、なんとか面接をしてもらえることに。
釣具屋さんでの面接は緊張しすぎて何も覚えてない
日帰りで大阪に向かい、昼前から15時くらいまで面接や試験があったと思う。それほど大きなところではなく、新卒は数人しかとらないとのこと。(ほとんどがバイト上がりか中途採用)
だから試験もマンツーマンだったと思う。全く覚えてないけど。
そして、なんとなく手応えを感じつつ、帰りの新幹線は夜だったので夕方、念願のアメリカ村へ。僕は古着が好きだったし、当時のアメ村は古着の聖地。学ラン姿じゃマズイと思い、学ランはカバンの中へ。パンパンになる斜めがけのカバン。
そしてあらかじめ持ってきてた、ギリギリかさばらないグレーのフリースジャケット。下は制服ズボン。
…くそダサい。
思い出すだけで赤面しそうなくらいださかった。けどなんだか凄く大人な気がしてた。大阪に1人できて、夕暮れ時のアメ村を闊歩し、定員さんと喋ってる自分。
シティボーイになった気分をつかの間あじわい、古着屋巡りをしているとあるお店で
『お兄さんどこから来たん?旅行?』
と、あっさり田舎もんだと見ぬかれ、
『山口県!へえ、1人ってスゴイやん。せっかくやし、どれでも1,000円まけたるでぇ。受かるとええな!』
と。
この大阪ノリな感じに一発で惚れ『絶対オレは大阪にくるぞ!!!!』とあらためて決意。
ちなみにこの時買ったのはアディダスジャージ
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に良く似た、どこのかわからない3000円くらいの古着ジャージ。(当時流行ってた)
今思うと、この時から4年後くらいには自分が古着屋でバイト店長することになるとは、人生不思議。
見事釣具屋さんに就職決定!販売員として働くことに
古着屋のお兄さんのおかげか、無事に就職決定。
住む場所を探しに再度大阪へ。当時すでにインターネットにはまっていたので、僕は個人的に安い物件を探し、そこを見に行くことに。
せっかくなのでと、大阪で不動産屋をしている母の知り合いのところにも物件を探してもらうことに。玉出という駅で待ち合わせをしたら、いきなりリヤカーに風車つけてゴミを大量に積んだ、住所不定感まんさいのオッサンが横切り
『おお、大阪やべえ。噂に聞いてたが、想像以上だ』
とテンション上昇。笑
結局自分でネットで探した築40年、家賃3万くらいのボロアポートに住むことに決定。風呂とトイレは別々だったけど、どっちも正方形で超狭い。でもついに自分の城を確保し、独り立ちすることに。
家を出るにあたり母に
『俺、仕送りいらんけぇね。家賃も安いし、自力でどうにかするけ。3年は帰らんつもりやけど、元気でね。』
と、見得をきり田舎を出ることに。
その後、1年で仕事を辞めフリーターになり、ラブホテルで働いたり、夜中のガソリンスタンドで働いたり、ギャンブルにハマって苦しんだり…。
しまいには年間通して1番長い連休が2日しかないバイトについたりで、3年どころか5年帰れなかったり…。
色々な経験をしたことを、時々書こうと思う。